Vol. 007
事例
京都大学iPS細胞研究所
ベンチャー企業の広報・マーケティング職からiPS細胞研究所(CiRA)で寄付募集担当者に。着任前年にはノーベル賞の追い風で寄付金は過去最高を記録したものの先細りで今後、このレベルを達成することは難しそう。研究資金が減るとiPS細胞の研究が停滞する恐れもある…
こんな時、あなたならどうする?
「仮説の論理構造」駆使し寄付金を5年で約4倍に
京都大学のiPS細胞研究所(CiRA)は、研究資金を集めるために「iPS細胞研究基金」を2009年4月に創設した。この基金の募集を担う組織の長を務めている渡邉文隆氏が、寄付募集にTOCから学んだ「仮説の論理構造」を活用。同氏が着任してからの5年間で寄付金額が約4倍に成長した。
京都大学の山中伸弥教授が2012年にiPS細胞(人工多能性幹細胞)に対する研究の貢献でノーベル生理学・医学賞を受賞したことは、誰しも記憶にとどめているだろう。山中氏が所長を務めるiPS細胞研究所(CiRA)には384人の教職員が在籍しているが、正規の雇用者は約1割の40人しかいない(数字は2019年3月1日時点)。残りの約9割の教職員は、民間の事業会社における非正規雇用者に相当。長くても数年間の有期雇用契約を結んで仕事に従事しているのだ。この事実をご存じの方はほとんどいないだろう。
寄付金集めにTOCを活用
再生医療や創薬への幅広い応用が期待されているiPS細胞は、基礎研究から臨床研究へと研究段階が進むのに伴って、膨大な費用と人的リソースが必要になる。これに備えるため、CiRAは2009年4月に一般からの寄付を募るための「iPS細胞研究基金」を創設している。
現在、この基金の事務局を担当する「基金室」の室長である渡邉文隆氏は、山中氏がノーベル賞を受賞した翌年の2013年6月に、寄付募集担当者として着任。広報やマーケティングを担っていた環境ベンチャー企業からCiRAの有期契約職員に転じた。「あしなが学生募金」のボランティアリーダーや他のNPO(非営利組織)の寄付募集支援の経験があったため、iPS細胞の研究に貢献できると考えて、CiRAの公募に応募したという。
CiRAが当時、目標と掲げていた寄付金額は年間5億円。渡邉氏が着任した6月の時点では、その年度は約3000万円しか集まっていなかった。同氏は「残りの契約期間である9カ月半で、4億7000万円を集めて結果を出さないと翌年度の契約はないものと覚悟していました」と当時を振り返る。ノーベル賞効果が消えた結果、新たな寄付者は受賞前よりも減っていた。月間の新規寄付件数は、ノーベル賞以前が平均で約181人、着任時は約50人と3分の1以下に激減していたのだ。
この苦境を脱するために、渡邉氏は多くの同僚の協力を得て、即効性のある手だてを打つ。2013年10月に、過去に一定額以上の寄付をした人たちを対象に「感謝の集い」を東京で開催したのだ。これまで関東では「感謝の集い」は実施していなかったが、同イベントで感謝の気持ちを伝え、成果を報告することで、再度の寄付を呼びかけることができたのである。こうした取り組みが功を奏するとともに、篤志家による大きな支援もあり、幸いにも2013年度は目標を大きくクリアできた。
しかし、何らかの手を打たないと、次第に寄付は先細ってしまう。それではiPS細胞の研究が停滞する恐れがある――。こうした危惧を払拭するために、渡邉氏は全体最適のマネジメント理論「TOC(Theory Of Constraints=制約理論)」の実践に乗り出す。
問い合わせへの対応が滞留
これに先立つ2013年12月、ゴールドラット ジャパンのトップを務める岸良裕司がCiRAを訪問した。所長である山中氏を支援するためだ。山中氏は、CiRA設立時から所長を務めている。それ以前は研究そのものが仕事だったが、所長に就任してからはマネジメントが仕事の中心となり、大規模な組織の運営に頭を悩ませていたという。
TOCは、イスラエルの物理学者であるエリヤフ・ゴールドラット博士が開発したマネジメント理論。物事はそもそもシンプルであるという原則に基づいたもので、複雑な問題でも、制約(ボトルネック)となっている部分だけを改善することによって全体に目覚ましい成果をもたらすということを示した理論である。
TOCでは、組織運営のように人間の行動がからむような領域でも、結果を前もって予測することが論理的に可能だと考えている。マネジメントの世界に科学的なロジックを持ち込んでいることが大きな特徴だ。TOCに取り組んだ山中氏は、ボトルネックが自分であることに気づいたという。山中氏のところで数多く論文や案件が滞留していたからだ。同氏は、後に「人が関わる研究開発のマネジメントでも科学者のように考えていいんだと分かった」と感想を語っている。
ボトルネックの改善に集中することが重要だという話を聞いた渡邉氏は「当初はあまりにも当たり前で、これが役に立つとは思えませんでした」と当時を振り返る。
2014年度の寄付金額は、5億円という目標はクリアできたものの、STAP細胞騒動の影響もあり、前年度比で37%減という結果になった。そこで翌年には新たな寄付者を募るために、これまでの寄付者と同じような職業・年齢の人たちに対するPRを強化した。基金事務局のスタッフによる寄稿や講演、取材を増やしたり、チラシを作成したりして基金の認知度を高めていった。
こうした取り組みが一時的に功を奏したものの、渡邉氏は、ここでボトルネックの改善が重要であることに気づいたという。基金事務局による対応が追い着かず、未対応の問い合わせが滞留することになったからだ。善意で寄付をしようと思ったのに返事を待たされた結果、クレームにつながるケースもあった。渡邉氏は「何も言わずに寄付をやめる方もおられたはずです」と当時の状況を語る。
ボトルネックを特定する
渡邉氏はTOCで学んだ考え方を使って、過去の取り組みも含めて、寄付におけるプロセスとその時々のボトルネックを改めて分析した。「ご支援の呼びかけ→問い合わせ対応→領収書発行→お礼とご報告」というプロセスのうち、大きな額の寄付をされた方々を対象とした「感謝の集い」は、それまで手薄だった「お礼とご報告」を強化した施策だ。すなわち、それ以前の取り組みでは「お礼とご報告」がボトルネックになっていたと考えられる。
一方、PRを強化した施策は「ご支援の呼びかけ」のボトルネックを改善する取り組みだ。その結果として、ボトルネックが「問い合わせ対応」に移った。こうした分析を通して、渡邉氏はボトルネックの改善が重要なこと、さらにはボトルネック以外の改善に着手すると無駄どころか、滞留が増えかねないことを痛感したという。
PRの強化で新たにボトルネックとなった「問い合わせ対応」を改善するために、フリーダイヤルを設置するとともに、アウトソーシングで問い合わせ対応能力を強化した。これで「問い合わせ対応」のボトルネックは解消できるが、その後に「ご支援の呼びかけ」がボトルネックになることが予想された。それでは、アウトソーシングに要した費用が無駄になってしまう。
そこで、フリーダイヤルに覚えやすいユニークな番号を設定することで、メディアへの露出が増加して問い合わせが増えることを期待した。フリーダイヤルの局番である「0120」以降の番号を、事務局メンバーが考案した語呂合わせの「80-87-48(ハシレ・ヤマナカ・シンヤ)」としたのだ。 山中氏がメディアに露出して基金への支援を呼びかける際にはこの番号が紹介されることも多く、2015年度の寄付金額は前年度比217%増の24億円に達した。
ジャパネットの創業者が助言
2016年度は前年度比4%減と伸び悩むものの、ここで翌年以降の飛躍的な成長へのきっかけがあった。通販大手であるジャパネットたかたの創業者である髙田明氏との出会いだ。
岸良からの仲介で出会った髙田氏は、「もっとたくさん、iPS細胞研究を応援したい人はいると思う。たくさんの人から寄付を募った方が、基金は安定するのでは?」と渡邉氏に助言した。目標金額を大きく上回る寄付が集まっていたとはいえ、大きな支援をする篤志家に依存した構造を改善することが大切だと髙田氏は指摘したのだ。確かに、高額寄付が寄付額全体に占める割合が高いと、支援を申し出てくれる篤志家の人数がすこし減っただけでも、寄付総額が大きく減る可能性がある。小口の寄付でも人数が多くなれば、寄付総額は安定する。
ただし、この実現には大きなハードルが待ち構えていた。それは、どんなに少額の寄付であっても、京都大学として領収書を発行しなければならないという点だった。
1000円未満といった小口の寄付を受け入れれば、寄付の件数は飛躍的に増えるだろう。しかし、それに伴って発行する領収書の数も増えるので事務局メンバーの処理が追い着かない。残業が激増して事務局の業務が破綻する恐れがあるし、領収書発行にかかる人件費を考慮すれば赤字になってしまう――。渡邉氏が、こう考えていたときに岸良から「本当にそうなの? その前提は思い込みでは?」という問いかけを投げかけられた。
既成概念を覆す
これに対して、渡邉氏は次のような答えにたどり着く。「個別の寄付に領収書を発行しなければならないという既成概念を覆せば、解決策を見いだせるかもしれないと考えました。研究者は素晴らしい科学研究をしているのに、職員は非合理的・非効率的な仕事の仕方をしていたら良くないな、という気持ちもありました」
同氏は個別に領収書を発行せずに、寄付を募る仕組みが実現できないかを探し始める。そうして、たどり着いたのが「Yahoo!ネット募金」だ。
Yahoo!ネット募金は、クレジットカードやTポイントによって寄付を集める仕組みだ。Tポイントであれば、1円分のポイントからでも寄付することが可能になっている。この仕組みを利用すれば、これまでと比べて、小口の寄付を募ることが可能になる。しかも、個々の寄付者に領収書を発行する必要はない。寄付金は運営会社のヤフーから毎月、一括して振り込まれるので、領収書は同社へ発行するだけで済む。
基金事務局は過去に例がないこの取り組みに対して学内の理解を取り付け、2017年2月1日からYahoo!ネット募金での寄付受付の開始にこぎ着ける。2019年11月1日時点で、寄付人数は合計で33万8472人、総額は1億802万2495円という成果を上げている。1件当たりの寄付金額は平均で319円である。現在は、このほかにも寄付企業の協力を得て、カタログギフト等での寄付や、クレジットカードのポイントで寄付できる仕組みが整備されている。
2016年に基金事務局に着任したPR担当者の活躍、山中氏のマラソンを通じた度々の呼びかけもあって、2017年度から寄付金額は急速に伸び始めて、2018年度には48億円に達している。渡邉氏が着任した2013年度に比べて、4倍近くに急伸しているのだ。
基金の充実を背景に、人的リソースも強化された。2018年4月に、これまで有期雇用だった教職員のうち13人を寄付金による無期雇用に転換した。13人分の生涯給与を基金から引き当てることが可能になったのだ。しかし、それでも非正規雇用率は約9割。国などからの競争的資金も、政策変更により大きく減少することも考えられる。米国の同程度の研究所と比べると、基金残高は盤石とはいえず、さらなる基金の充実が求められている。
渡邉氏は、TOCに対する理解を深めるために2018年にゴールドラットスクールの「ゴールドラットTOC思考プロセス」を受講した。同氏はTOCからの学びを次のように説明する。「どのような組織にも、既成概念や思い込みがあると思いますが、これに基づいた前提をひっくり返すことはブレークスルーを起こす一つの方法だと思います。前提を変えることによって結果がでたら、システムの定義を更新して、次のボトルネックを探して解消に取り組むことが大切です。これを繰り返すことで、組織を継続的に改善していけると思います」
渡邉氏は、こうした取り組みを基金室にととまらず、CiRA全体に広げていきたいと考えている。現在、所長補佐を務める菅政之氏や若手研究者とともに、ラボにおける研究マネジメントの改善を目的とした「ラボマネジメント研究会」を開いている。(了)
▲このQRコードをスマートフォンで読み込むとCiRAへの寄付サイトを表示します。ご協力をお願いいたします。