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Vol. 014

講演レビュー

金井 誠太 氏 (元マツダ会長)

大手に追い着こうとするがゆえに背伸びをし、浮沈を繰り返す経営。新車がヒットし、業績は回復したものの将来に向けて何に先行投資をするか厳しい環境規制も間近に迫り、焦りを感じる…

こんな時、あなたならどうする?

10年後の「ありたい姿」を実現するための秘訣とは?

バブル崩壊後から長らく業績が低迷していたマツダ。しかし、2000年代に入ると数々の変革活動が奏功し業績は大きく回復。この復活劇を最前線で指揮してきた金井誠太氏が、一連の変革を成功に導いた秘訣を解説した。

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 マツダには、きらりと光る「記憶に残るクルマ」の成功例が数々あります。例えば、世界初の本格的量産型ロータリーエンジンを搭載した「コスモスポーツ」(1967年発売)、1980年の第1回日本カー・オブ・ザ・イヤーを受賞した「ファミリア」、1989年の発売から現在に至るまで世界中でヒット商品となった「ロードスター」などです。その一方で、経営は浮沈を繰り返してきました。大手に追い着くことを目標に掲げていたがために急ぎ過ぎたし、背伸びをし過ぎたのだと思います。



「マツダ地獄」から脱却へ

 会社の調子が良くなると一気に投資して、商品ラインアップと販売網、生産能力を拡大してきました。生産はほぼ計画通り能力を拡大できたものの、開発や営業は全ての商品、全てのお店を魅力的にするほどの力がなく、苦労が続くという状態に陥ったのです。経営計画通りに売らないと投資回収できないというプレッシャーから、営業は数合わせのために値引きに走ります。これは麻薬のようなもので、値引きをすると売れる台数が増える。しかし、だんだん売れなくなるので、さらなる値引きをするようになります。


 バブル崩壊後の1990年代には「ブランドは地に落ちた」といっても過言ではないような状況でした。「マツダ地獄」という不名誉な言葉もありました。値引き幅が大きいのでマツダ車を買うと、他のメーカーに買い替えたくても下取りが安くなるので、マツダで買い替えざるを得ないという状況を揶揄(やゆ)した言葉です。


 このときに救いの手をさしのべてくれたのが、資本提携していた米フォード・モーターです。この当時、フォードは世界的にM&A(合併・買収)を展開しており、マツダを含めて8つのブランドを持っていました。これらのブランドの差異化・再定義が始まり、2000年にマツダのグローバルブランド戦略「Zoom-Zoom」が策定されました。「子どもの時に感じた、動くことへの感動」をクルマを通してお客様に提供することを意味するものです。

ゴールドラットジャパンが主催する「TOC クラブ」で講演する金井誠太氏


新戦略第一弾を成功に導く

 話はさかのぼりますが、1980年代の始めにドイツの高速道路「アウトバーン」で技術者のプライドを粉々にされる体験をしました。そのときに乗っていた車は、欧州に輸出していた「カペラ」です。時速170キロは出せたものの、音はうるさいし、車体が震え、ハンドルやブレーキの操作にはものすごく神経を使い、文字通り手に汗を握りました。しかし、ドイツ製のプレミアム車だと、時速200キロで走っても、すごく気持ちがいい。ずっと運転していたいと感じました。この歴然とした差にショックを受けたとともに、これこそが自分の技術者人生の目標を自覚した瞬間でした。


 1999年に、この目標に挑戦するチャンスが訪れます。Zoom-Zoom戦略に基づいた最初の製品となる初代「アテンザ」の主査を私が務めることになったのです。余りの大役に尻込みもしたのですが、「マツダの復活を賭けたZoom-Zoom戦略車第一弾」を形にする責任も感じました。当時の会社の経営はとても厳しい時期で、2001年に実施した早期退職制度で10%以上の社員が会社を去りました。


 初代アテンザの開発には会社も総力を結集してくれたおかげで、2002年に発売すると世界中でヒット商品となりました。会社の業績も回復し、2001年を底に増収増益に転じました。そして、2005年には開発全体の責任者を命じられました。



高度な技術革新で全モデルを一新

 この当時は、Zoom-Zoom戦略に基づいた製品と景気の好転によって足元は何とか復調していましたが、将来に向けての準備が不十分だと考えていました。中でも、2012年から欧州でCO2規制が始まるなど、世界的に厳しくなる環境規制に対して、十分な技術見通しを得ていないという自覚と焦りがありました。幸い、経営環境には余裕がある。それなら今こそ、長期戦略を立案するべきだと考えました。


 そう考えていたときに、ちょうど経営企画から「10年先の2015年のビジョンを作ろう」という話が持ち上がりました。私にとっては渡りに船でした。2006年から本格的に議論を開始しました。チームのメンバーに対して「マツダは10年後に、どんなブランドになっていたいかを考えてみよう」と投げかけました。まずはロマンを語ろうと思ったのです。


 この議論の結果が、2007年に公表した「サステイナブル“Zoom-Zoom”宣言」です。この宣言の骨子は「マツダ車をご購入いただいた全てのお客様に『走る歓び』と『優れた環境安全性能』を提供する」というものです。


 ただし、大きな方針は決まったものの10年後の「ありたい姿」と当時の実力には大きなギャップがありました。このギャップを埋めるために、今ある制約は全て忘れて世界一の車を実現するためのアイデアを議論しました。そこから「すべての基幹ユニットに高度な技術革新を織り込んで全く新しく造り替える。これを短期間に全モデルに展開する。さらに普及のために極めて厳しいコスト目標を達成する」という大方針が見えてきました。この方針に基づいて、エンジンやトランスミッション、車体、足まわりといった全てのベースユニットをゼロから見直して、理想の姿を考え抜いた技術群が、現在のマツダを支えている「SKYACTIVTechnology」です。



「モノ造り革新」始動

 2012年からの6年間で9車種の市場導入、それも全車種の全基幹ユニットを一新するというマツダ史上最大のチャレンジは、これまでのやり方では絶対に達成することはできません。この計画の実現に向けた変革活動が「マツダ モノ造り革新」です。


 この取り組みの大きな狙いは、モデルごと、仕向け地ごとに最適化された多品種・少量生産のユニットを、少品種・多量生産に匹敵する経済効率で開発・製造することです。同じようなコンセプトの活動は過去にも数多くありましたが、どれも長続きしませんでした。改革の対象や参加部門が部分的だったり、多くの制約を残したままだったりしたためです。また世界一の車を作ろうという高い志もありませんでした。これに対してモノ造り革新は、志が高く広げた風呂敷がやたらと大きいこと、そして会社の未来が託されていること――このようなロマンを開発や製造の人たちが共有して何カ月も議論した点が過去の活動との大きな違いです。


 モノ造り革新には4つのキーファクターがあります。1つ目が「一括企画」で、2015年時点で生産する全モデルの主要諸元と盛り込む技術を一括して企画することです。2つ目が「コモンアーキテクチャー」です。これは部品の共通化ではなく、設計思想や基本特性を共通化することです。3つ目が、最新のNC(数値制御)技術を活用して、同じ工程で異なる品種を連続して生産する「フレキシブル生産」です。


 4つ目が10年以上先の競争力を担保するための「技術革新」。この実現には、設計も生産も小出しの改善ではない思い切った技術革新に取り組む必要があります。そしてサプライヤーさんを含めて、これらの要素をみんなで一緒に考えて創り上げていく「共創:コラボレーション」も欠かせません。


 2010年前後の数年間はリーマン・ショックや東日本大震災で苦しみましたが、SKYACTIV技術の開発やモノ造り革新は全くぶれることなく進捗していきました。なぜなら、どう考えてもこの計画の完遂に勝るリスク対応は出てこなかったからです。2012年にSKYACTIV技術が全てそろった「CX-5」を市場投入してから業績は急回復していきます。



マツダが考えるブレークスルーとは

 一連の変革活動のなかには、これまでの取り組みの延長線上にないブレークスルーがあります。ここでブレークスルーに対する考え方をお示ししましょう。コストと品質のように、こちらを立てるとあちらが立たずといった関係にありがちな特性がたくさんあります。このような場合、180度に相反する関係と捉えると、すぐにどこでバランスさせるかという議論になってしまいます。


 しかし、それぞれの特性を縦軸と横軸の関係だと考えるとどうなるでしょう。相反の関係は斜めの線で表せることになります。バランス点を考えるというのは、この斜め線上を行き来する議論ということになります。ブレークスルーとは、この斜め線を右上に押し上げることにほかなりません。こうすれば縦軸と横軸の特性の双方を高いレベルに引き上げられます。エンジニアの仕事の本当の付加価値は、斜め線を右上に押し上げることです。バランス点を探ることではないのです。モノ造り革新の狙いも、これと同じです。共通性と多様性という両方の特性を高いレベルに引き上げたのです。

図1 ●相反する特性の双方を高いレベルに引き上げる


10年後の「ありたい姿」を描く

 ブレークスルーの実現に最も重要だったのがバックキャスティング、すなわち「2015年にどうありたいか」をみんなで考えて計画に落とし込んだことです。マツダでは通常のモデルチェンジが5年、新車開発期間は約3年です。当初は「10年後を考えろ」といっても、どこから手をつけていいのか分からないので何も出てきませんでした。


 このとき、40を超えるチームを作って議論してもらいました。各チームにヒアリングした際、私は「まだまだ志が低いなぁ、それで世界一になれるのか」「まだまだ制約にとらわれているな」「これまで誰もやったことがない工夫がどこにあるんだ」と、大半のアイデアをつっかえしました。


 制約を外せといってもなかなか外れません。制約を知っていることが自分の技術力だと思い違いしている人が多いのだと感じました。なかには「ノウハウ」という名前の付いた制約もあります。なぜそうするのか、つまり「ノウホワイ」を理解していないノウハウは始末が悪いものです。


 このようなコミュニケーションを繰り返していると、そのうちに、現実から離れて夢を語り始めます。そして夢みたいな話がだんだんと希望に変わる。さらに希望が意志になり、意志が計画になって、どんどん目が輝いてくる。こうして醸成されたロマンは簡単に部門の壁を越えて共有化されて、チームが一つになってくる。ゴールがはっきりイメージできるようになると、克服すべき課題も明確になります。「どんな犠牲を払ってでも、この障害を乗り越えよう」という覚悟ができてくるのです。


 世の中には、改革を実現するために危機感をあおるマネジャーも少なくありません。しかし、危機感から生まれたエネルギーを超えるもの――それは、世界一になるチャンスだというロマンとパッションです。だからこそ、モノ造り革新は成功したのだと確信しています。マツダでは、今でも10年後の「ありたい姿」を描く活動を経営レベルから細かいユニットレベルに至るまで各階層で定期的に実施しています。



問題を未然に防ぐPDマネジメント

 最後にマネジメントスタイルの話をしましょう。ビジネスにおいてPDCA(計画・実行・検証・改善)サイクルを回すことが重要なことは誰しもご存じでしょう。このサイクルのうち、世の中のマネジャーの多くが、CAの段階を重視しています。実務にたけていた人がマネジャーになるケースが多いので、納期間近で問題が発覚しても自ら挽回してしまうのです。すると、当人は「やっぱり俺がいないとダメだなぁ」と自己満足に浸ります。


 PとDを「やっとけ」と丸投げ・放置するCAマネジメントでは、多くの場合、チェックの段階で問題が発覚します。そして発覚する工程が後になるほど、問題が重大になるし、解決も困難になります。納期が遅れることも頻発するでしょう。車のリコールと同じで、工程が後になるほど問題の発見は容易になりますが解決は困難になるのです。


 本当に優秀なマネジャーはPとDのフェーズを重視します。PDマネジメントであれば、重大な問題を未然に防げる可能性が高くなるからです。仮に後工程で問題が発覚しても、ほとんどが軽微な修正で済むことになります。

図2 ●PDCAとマネジメント(赤字はエネルギーを注ぐところ)

 それにもかかわらず、世の中にはCAマネジメントのマネジャーが多いのではないでしょうか。その理由は、マネジャーにとってはCAマネジメントの方が楽だからです。最初にしっかりとしたプランを立てるのは気力もエネルギーも必要になりますが、後からケチをつけるのは簡単なのです。また上からの評価が高くなる傾向もあります。


 問題が発覚してから上に報告し、それを自ら解決する人のほうが目立つし、上の人も「あいつは優秀だ」と思いがちです。しかし、これは実は能力の低いマネジャーを甘やかしているのではないでしょうか。


 これに対してPDマネジメントでは、そもそも問題の発生が少なくなるので上に報告する機会が圧倒的に減ります。このため、会社の中では活躍ぶりがあまり目立たないのです。


 後の方の工程で発覚した問題に対してマネジャーが陣頭指揮、エース級の人材が対応にあたる――。これを続けている職場は、いつまでたっても忙しさから解放されることはないでしょう。プロジェクトの初期にマネジャーが強い関心を示して、エースを投入して問題を予測して素早く意思決定することが大切です。こうすることによって、ビジネスの効率は飛躍的に高まります。


 マツダでは2007年ころから、全体最適のプロジェクトマネジメント「CCPM(Critical Chain ProjectManagement)」を導入しましたが、これは組織的にPDマネジメントを実践していくための有効なツールだと思います。また、今回の話に出てきたバックキャスティングや一括企画も、長いスパンのPDマネジメントだと考えています。(了)

図3 ●イノベーションを成功に導くためのリスキー・プリディクション

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